目的と手段と結果
私は昔からことある事に祖母から
「目的はなに?」
「目的を決めなさい」と言われてきた。
長年、【目的】と【手段】と【結果】を
混同して、それぞれの意味もわかってなかった。
目的と手段は違う。
手段と結果も別物。
目的=結果でもない。
これらを混同しないことは
自分の人生を歩み、創造していく上で
大切なことだった。
【目的】
これはいつだって
意識の拡大、内側の感覚を変える、気持ち良さ、味わいたい感情がある、エネルギーを出す、自分のパワーを感じる、自分のやってみたい好奇心を満たし体験させてあげる、自分を知ること。
【手段】は無限にある。
手段・方法はその都度出てきたアイディアやツールを使い、やってみること。
【結果】は、人間が管轄するものじゃない。
神様(宇宙)が決めること。
後からついてくるもので
結果はぼたもちのようなもの。おまけの類い。
味わいたい気分や感覚があるから
手段を使い、体感する。
だけど、この現代では
結果史上主義になっていて
人を見るのも判断するのも結果ありき。
それまでのプロセスは無視され
結果が全てだから、結果を残せない=評価対象じゃないみたいな概念があった。
わたしの場合、よくやってたのが
【例】お金がほしいから 仕事をする
これは
お金を稼ぐ(手段)と仕事をする(手段)だから
この場合だと目的がないため、仕事のために仕事をするというような、何のためにやってるのかわからなくなりやすく、永遠に終わらないラッドレースのような気分に陥って嫌になりやすい。
そもそも”お金を稼ぐ”ことが目的にすり変わってるため、お金を稼いだ一瞬は気分の良さを感じるが
その一瞬のために大半を犠牲にすることになる。
お金はそもそも、色んなことを体験し体感する為や
体験から得られる気持ちを味わうための
ひとつのツールにすぎず、
お金自体はただの紙や鉄である。
それが今の社会では、お金に必要以上の価値判断を持ってしまっているから手段のひとつのツールでしかないはずの” お金 ” が
目的や結果にすり変わりやすくなり
ひたすらお金を得るためにお金を追うみたいな
ちぐはぐなことにもなりやすい。
あとは、
【例】彼氏がほしいから 出会いを探す
これも
彼氏を作る(手段)と出会いを探す(手段)だから
例え彼氏が出来てもなんでこの人と付き合ったんだっけってなったりしてた。
目的が” 彼氏を作る ” にすり変わり、
彼氏が出来たら、ある意味目的達成なので
その後のモチベーションが保てなくなって
結局、最初のドキドキが終わればそれで終了。
相手を取っかえ引っ変えしては、なんか違うとなっていた。
本来彼氏をつくるというのも、幸せを味わうひとつの手段でしかないはずだ。
彼氏を作ったとしても、幸せを感じる心がないなら彼氏と居る大切な時間も味わえないし
彼氏が自分を幸せにしてくれるわけではないのだ。
本来、自分のご機嫌は自分でとるもので
彼氏が居ても、彼氏がご機嫌取りしてくれてないと心が安定しないならそれは遅かれ早かれ終わりを迎える。
結婚でも同じ。
子供が欲しいも同じ。
目的はいつだって、外の物や人じゃなく
自分の内側で感じられる感覚の方だ。
ちなみにもうひとつ私がよく混同してたのは
【結果】を先に持ってきていたこと。
【例】
📌稼げるかもしれないから(結果)この仕事をする
📌相手に認めて貰いたいから我慢をする
📌嫌われたくないから自分を偽る
稼げた(富を得た)(結果)
認められた(結果)
嫌われた or 好かれた(結果)
こういった結果は
本来自分でどうにか出来ることじゃなく
後からついてくる” おまけ ”でしかない。
そこにはそもそもの種の種類や気候が絡むような人には作れない縁やタイミング、そういう自然が
絡んでくることだから
そもそも論、人間の仕事じゃない。
人と同じ結果を得ようと同じことを試みても
全く同じ結果にはならない。
だから人間の私がすることは
自分の【目的】をはっきりさせること。
・何を感じたいのか
・どんな感覚を得たいのか
自分のことをまっすぐに視て
出てきたそれに許可(OK)を出すこと。
幸せが感じたいなら
無理矢理彼氏を作らなくても
今出来る手段で幸せを感じられたらいいわけで。
喜びを感じたいなら
たくさん喜び感じられる手段は
この世の中にたくさんあるわけで。
だから、
” これじゃなきゃ幸せが得られない ” とか
” これしかない ” って思い込みがあると
アイディアすら制限されてしまうから
そこには執着もうまれるし
ますます叶わない😭って状態になる。
誰と一緒に居るか とか 何をするか とか
そういう人や状況に本質があるわけじゃなくて
※なぜ それが欲しいと思ったのか
※なぜ そこに行きたいと思ったのか
※なぜ その人と一緒に居たいと思ったのか
※なぜ そう思うのか
自分でここをハッキリさせないと
そもそもどこにも行けない(到達しない)のは当たり前。
だって、これがわからなかったら自分でも
目的地がわかってないのと同じだから
どこにも自分を連れて行きようがない。
ただまっすぐに自分を視るということ。
自分を知るということ。
自分にもっと真剣に興味を持つということ。
そう思うと
ダンスがしたいと思っていても
それをすることで感じられるだろうと思ってる
” 何か ”があるわけで
それを知ったら
そもそもダンスじゃなくてもよかったりな場合や
ダンスだけはやりたくないと思ってても
それをすることで感じるだろう” 何か ”を
無意識に避けてるだけな場合もある。
こういうことを知るために
自分の時間をたっぷりとることは
本当に自分のことを大事にしてるのと同じだなと
思った。
これをしてるなら
そもそも人がどうとか関係ないし
自分には才能がないとか
まだまだ足りてないとか
そういうことは皆無になる。
自分自身に向き合って
自分の本音を捉えてあげることをしないなら
いきつく場所はどこもないということ。
幸せになりたいと人は言うけど
幸せは 感じる ものだ。
何かを得たら
ずっと幸せを感じるわけではない。
感度や感覚がひらいてないと
そもそも味わえない。
感じるためには
頭をしずめて
” 今 ” に居ないと感じられない。
これは、人生の基本ベースだと思った。