第二のおうち。

HSS型HSPで逆エンパス、数秘33の超絶変人の私のひとりごと。

目的と手段と結果

 

私は昔からことある事に祖母から

「目的はなに?」

「目的を決めなさい」と言われてきた。

長年、【目的】と【手段】と【結果】を

混同して、それぞれの意味もわかってなかった。

 

目的と手段は違う。


手段と結果も別物。


目的=結果でもない。

 

これらを混同しないことは

自分の人生を歩み、創造していく上で

大切なことだった。

 

 

【目的】
これはいつだって
意識の拡大、内側の感覚を変える、気持ち良さ、味わいたい感情がある、エネルギーを出す、自分のパワーを感じる、自分のやってみたい好奇心を満たし体験させてあげる、自分を知ること。

 

【手段】は無限にある。
手段・方法はその都度出てきたアイディアやツールを使い、やってみること。

 

【結果】は、人間が管轄するものじゃない。
神様(宇宙)が決めること。
後からついてくるもので
結果はぼたもちのようなもの。おまけの類い。

 

 

味わいたい気分や感覚があるから

手段を使い、体感する。

 

 

だけど、この現代では

結果史上主義になっていて

人を見るのも判断するのも結果ありき。

それまでのプロセスは無視され

結果が全てだから、結果を残せない=評価対象じゃないみたいな概念があった。

 

 

わたしの場合、よくやってたのが

 

【例】お金がほしいから 仕事をする

 

これは
お金を稼ぐ(手段)と仕事をする(手段)だから

この場合だと目的がないため、仕事のために仕事をするというような、何のためにやってるのかわからなくなりやすく、永遠に終わらないラッドレースのような気分に陥って嫌になりやすい。

そもそも”お金を稼ぐ”ことが目的にすり変わってるため、お金を稼いだ一瞬は気分の良さを感じるが

その一瞬のために大半を犠牲にすることになる。

お金はそもそも、色んなことを体験し体感する為や
体験から得られる気持ちを味わうための
ひとつのツールにすぎず、
お金自体はただの紙や鉄である。
それが今の社会では、お金に必要以上の価値判断を持ってしまっているから手段のひとつのツールでしかないはずの” お金 ” が

目的や結果にすり変わりやすくなり
ひたすらお金を得るためにお金を追うみたいな
ちぐはぐなことにもなりやすい。

 

あとは、

 

【例】彼氏がほしいから 出会いを探す

 

これも
彼氏を作る(手段)と出会いを探す(手段)だから

例え彼氏が出来てもなんでこの人と付き合ったんだっけってなったりしてた。
目的が” 彼氏を作る ” にすり変わり、

彼氏が出来たら、ある意味目的達成なので

その後のモチベーションが保てなくなって

結局、最初のドキドキが終わればそれで終了。

相手を取っかえ引っ変えしては、なんか違うとなっていた。


本来彼氏をつくるというのも、幸せを味わうひとつの手段でしかないはずだ。
彼氏を作ったとしても、幸せを感じる心がないなら彼氏と居る大切な時間も味わえないし

彼氏が自分を幸せにしてくれるわけではないのだ。

本来、自分のご機嫌は自分でとるもので

彼氏が居ても、彼氏がご機嫌取りしてくれてないと心が安定しないならそれは遅かれ早かれ終わりを迎える。

 

結婚でも同じ。
子供が欲しいも同じ。

 

目的はいつだって、外の物や人じゃなく
自分の内側で感じられる感覚の方だ。

 

ちなみにもうひとつ私がよく混同してたのは

 

【結果】を先に持ってきていたこと。

 

 

【例】
📌稼げるかもしれないから(結果)この仕事をする

📌相手に認めて貰いたいから我慢をする

📌嫌われたくないから自分を偽る

 

稼げた(富を得た)(結果)
認められた(結果)
嫌われた or 好かれた(結果)

 

こういった結果は

本来自分でどうにか出来ることじゃなく
後からついてくる” おまけ ”でしかない。
そこにはそもそもの種の種類や気候が絡むような人には作れない縁やタイミング、そういう自然が
絡んでくることだから
そもそも論、人間の仕事じゃない。

 

人と同じ結果を得ようと同じことを試みても
全く同じ結果にはならない。

 

だから人間の私がすることは
自分の【目的】をはっきりさせること。

 

 

・何を感じたいのか
・どんな感覚を得たいのか

自分のことをまっすぐに視て
出てきたそれに許可(OK)を出すこと。

 

幸せが感じたいなら
無理矢理彼氏を作らなくても
今出来る手段で幸せを感じられたらいいわけで。

 

喜びを感じたいなら
たくさん喜び感じられる手段は
この世の中にたくさんあるわけで。

 

だから、
” これじゃなきゃ幸せが得られない ” とか
” これしかない ” って思い込みがあると
アイディアすら制限されてしまうから
そこには執着もうまれるし
ますます叶わない😭って状態になる。

 

誰と一緒に居るか とか 何をするか とか
そういう人や状況に本質があるわけじゃなくて

 

※なぜ それが欲しいと思ったのか
※なぜ そこに行きたいと思ったのか
※なぜ その人と一緒に居たいと思ったのか
※なぜ そう思うのか

 

自分でここをハッキリさせないと
そもそもどこにも行けない(到達しない)のは当たり前。

 

だって、これがわからなかったら自分でも
目的地がわかってないのと同じだから
どこにも自分を連れて行きようがない。

 

 

ただまっすぐに自分を視るということ。
自分を知るということ。
自分にもっと真剣に興味を持つということ。

 

そう思うと
ダンスがしたいと思っていても
それをすることで感じられるだろうと思ってる

” 何か ”があるわけで
それを知ったら
そもそもダンスじゃなくてもよかったりな場合や

ダンスだけはやりたくないと思ってても
それをすることで感じるだろう” 何か ”を
無意識に避けてるだけな場合もある。

 

こういうことを知るために
自分の時間をたっぷりとることは
本当に自分のことを大事にしてるのと同じだなと
思った。

 

これをしてるなら
そもそも人がどうとか関係ないし
自分には才能がないとか
まだまだ足りてないとか
そういうことは皆無になる。

 

自分自身に向き合って
自分の本音を捉えてあげることをしないなら
いきつく場所はどこもないということ。

 

 

幸せになりたいと人は言うけど

幸せは 感じる ものだ。

 

何かを得たら

ずっと幸せを感じるわけではない。

 

感度や感覚がひらいてないと

そもそも味わえない。

 

感じるためには

頭をしずめて

” 今 ” に居ないと感じられない。

 

 

 

これは、人生の基本ベースだと思った。

 

 

よろこんで置いていかれよう。

世の中の動きが早い。

 


時代の流れも早いし

 


1日の流れも早い。

 


1秒の過ぎ去る流れも早い。

 


ゆっくり呼吸する時間も惜しんで

 


ゆっくり歩くことも

 


ゆっくり何かにみとれる時間も

 


こんなに早いと味わえない。

 


歩くスピードも

呼吸の深さも

 


本来、全部一人一人違う。

 


私はもっと感じたい。

 


もっとゆっくり味わいたい。

 


あくせく動いて

心をおいてけぼりにして

味わえなくなって

 


本当の幸せを見失って

どこにもいけず

何にもなれず

彷徨い続けるくらいなら

 

 

 

よろこんで世間においてかれよう。

 


私は私の道を歩くしか出来ないのだから。

 

 

わたしが感じたこと。

 

舞台はここ地球。(大海原)

車である肉体を乗りこなしながら

大海原の中で色んな事を学ぶ。

 

大海原へ来て車に乗ってるのはいいけど

でも、車である肉体の乗りこなし方が

そもそもわかっていなかった。

 

この車にはどんな機能があって

どんな特性があって

どのスイッチを押せばどうなるのかなど

何も知らずに今まで来た。

 

 

車と、わたし自身は別物なのに

わたし自身が

車とさえも思ってた時代がある。

 

 

手探りのまま車を走らせ続けた過去。

 

行きたい場所も

やりたいことも

そこへ行った時に感じる感覚も

目的がなんなのかもわからず

ひたすら車を走らせ続けて

 

車を走らせることは慣れたけど

それ以外にはなんだかよくわからない。

 

それからもひたすら車を走らすだけ走らせて

車体を色んな所へぶつけながら

時に人の車にぶつかって怪我をさせたりしながら

走ってきたけど

 

なんだかなぁって思うようになって

どんどん疑問が大きくなって

 

車走らせるためだけに

この大海原へきたような感覚が嫌になってた。

 

幼い頃から漠然と思ってた

「わたしっていったい何」

「わたしはなぜここにいるのか」

「わたしはだれ?」

 

という疑問を抱えながらも

それでもみんなもそうだから

みんな車を走らせてるんだからと

誤魔化しながらとにかく走らせてきてたんだ。

 

そしたら

いよいよ車は思うように動いてくれなくなって

車の痛みも感じるようになった。

はて。どうしたものかと止まってみた。

 

 

そしたらうっすらみえてきた。

 

本当は車を走らせるためだけに

大海原へ来たわけではないと。

 

まず、車のアクセルとブレーキしか

知らなかった私は

他に性能があるんじゃないかと気付きだし

わたしが乗ってる車の偉大さも感じはじめた。

 

ずっと人の車と自分の車を比較し

自分の車の気に入らないとこばかりを見て

なんでここはこうじゃないんだとか

車を叩いたり車に怒ったりして

しまいには乗ってるわたし自身がダメだからと

自分を否定してたり。

 

でももうそれを辞めて

車を可愛がってあげることにしてみたんだ。

 

 

生まれた時から共にいてくれてる車。

まず車を大切にしたいと思った。

 

車があるからわたしは色んな場所へ行ける。

車があるから車を通して色んなことを感じれる。

車があるからわたしは今この世界に居れる。

 

 

わたしが乗ってる車は

アクセルとブレーキ以外にどんなことが出来るのか

知ることにワクワクしはじめた。

 

知らなかった車のいいとこが

少しずつ見え始めた。

 

 

わたしが乗ってる車は、他の車を感知するために

大きなエネルギーを纏っている。

そのエネルギーで相手の車を包みこみ

相手の車が今どんな状態かや、

その車に乗ってる相手の今の状態を

感知する能力があることに気付いた。

 

これは中々素晴らしい性能で

とても嬉しくなった。

 

そしたら、まだ見つけられていない性能を

みつけたくて仕方なくなった。

 

車の中に乗ってるわたし自身が

車を使ってやりたかったことはなんなのか

思い出す日がきっとくる。

 

 

 

第二のおうち、本日始動。

 

わたしの思ったこと、気になること

とりとめのないこと、心のいちぶ を

あたらしく記録する。

 

本日、2023年5月5日。こどもの日。

 

 

子供のときのわたしへエールを送りたい。

そして、これからのわたしに期待したい。

 

今ここから。

今しか書けないわたしの叫び。

 

いつかのわたしへ。

どこかのあなたへ。